許せない自分の影には深い愛情がある。
できない自分の影には高い志がある。
情けない自分の影には守りたい存在がいる。
離婚する以前のことなんですが、仕事にしても家の事にしても、はては人間関係においても日々起こることに対して「〜しとかんといけん!」「〜せんといけん!」て一日中言ってるな私、ってふと気づいたことがあったんですね。その時なんだかすごい冷静になって、ほんとにやらなきゃいけないことなの?って自分に問いたくなったんですよ。確かに出来るに越したことはない案件もありましたが、全部じゃないじゃないかと笑。
フラメンコと出会ってスペインを訪れるようになってから、あのスペイン人達の'ただ思うように生きてる'ダイナミックさには心底感服していたんですが、他人事だと思ってたんでしょうね。その時スペイン人思い出して、そことも繋がる何かが光ったんですよね。
それからは一つ一つの出来事に対してまず「ねばならぬ」をやめてみました。すると「いまから〜するのがいいね」とか「〜は今日じゃなくてもいいか」とか、やるにしても優先順位を考えるようになったんです。
ただ優先順位をつけれるということは、自分はどうしたい、したくないが浮き彫りになってきたんですよね。その後離婚したことで人生初の一人暮らし。俄然増えた己と向き合う時間の中で気づいたんですが、私自己肯定感低かったんだなと笑。「ねばならぬ」が強迫観念とまでは感じてなかったけど、自分に自信がないみたいな感覚は子供の頃から確かにありました。ちょうど50歳になって、その数字に我ながらびっくりして笑でも立派な大人にはなれてないとしても、ふざけてもなかったし、その時その時自分なりに一生懸命だったじゃんと。50年よお頑張ってここまで生きてきたなと思いました。
そんな中で冒頭に載せた言葉と出会いました。自己肯定感の捉え方は人それぞれ違うかもしれませんが、根本的なところは自分を許しているかどうか、ではないでしょうかね。
自分の影にあるもの。私は理屈ではないものだと思うんです。身体は自分が内側にも外側にも発した声を全て聴いています。その言霊を成仏させないと自分の中に不一致が生まれる。そんな時に、言葉を入れ替えてみる作戦はとても有効かなと思いました。発想を変えるためというよりは、ループの中から一旦自分を解放するため。客観的になって、不器用な自分が現れても思わずフッと笑えたならもうハイ、それ許しました。
日本は変な言葉にみんな傾倒するけど、自己肯定感てそもそもおかしい言葉ですよね。長い人生の中で自己否定の感覚に陥ることはある、は現象ですが人間は自然の一部なのでそもそも生まれてきたことに肯定も否定もないはずです。
不器用な自分を'認める'と解釈するとまた是非を問う圧になりそうな気がする笑。現象と自己を混同しないように力みが入らないような言葉、音も関係あるんじゃないかしら、ちょっとモヤモヤしたらそんな言葉を探ってみるのもいいかもしれませんね。
私も自己肯定感低かったんだと客観視した途端、それは現象となって空へ消えていきましたから笑
こちらのブログで私が話していることは主に内省についてです。
現象に因果関係の答えを求めるのではなく、起こったことを通して自分を振り返った時に、その現象たちが全て自分にとって大事なことを気づかせてくれるためだった、のが因果で、答えは自分の中にあります。内省において正しいか間違いかという意味の答えは必要ありません。ただどうして生まれてきたのか、というルーツに立ち返ることが自分の在り方にも繋がるのではないかと思います。
この文章の引用元が分からなくなってるので、何か失礼がありましたら大変申し訳ございません。とても分かりやすく救われたぐらい心に響いたので、このブログを読んでくださった方にも、もしかしたらお役に立てるかもしれないと思い紹介させて頂きました。
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