前回客観視のお話をしましたが、私はこれを体にも当てはめています。
私は自分の体をどこか独立した?ひとつの存在みたいに感じてるところがあって、例えば風邪の症状が現れた時。私の体調不良は風邪ひくぐらいなんですが、その風邪も誰かにもらうんじゃなくて、大概体の中のエネルギーが滞った時、もしくはバランスが崩れている時を知らせてくれる現象なんですね。←病気だと思ってません笑
体がAさんとしてわたしはCさんです。ではBさんは?私です。だけどこの私はわかりやすく言うと、'エゴの自分'としときましょう笑。
Cさんのわたしの仕事はただ水分と睡眠を取ることです。それ以上でもそれ以下でもない。極端な言い方をすれば、例えばBさんの私が自分の力で治してやろう、というのは傲慢になります。ここで言う私の力というのは、内側の力ではなく外側の力という意味です。水と睡眠は自然から生まれるものですし、内側の力を働かせるためのガソリンのようなものですね。
例えば薬を飲めば治る、病院に行けば治る、食べれば太る、動けば痩せる…etc、
自分の体は外側から取り入れた情報そのままの通りに当てはまる、
と純粋に信じていたらまさか傲慢とは思わないですよね。信じる者は救われますし、実際救われている人も沢山います。でも情報はウソではないんだけれど自分の体には当てはまってなかったり、欲望からそう信じたい思いが自分の信念だと思い込んでいた、場合もあります。純粋に信じる=思い込み、とも取れます。本人は悪気はないので、確かに傲慢とは言えません。だからと言って'全てを疑ってかかれ'という言葉もよく聞きますが、それもなんだか世知辛い笑。
もちろん人生は悲喜交々そんなものかと素通りするのもひとつの生き方です。
ふと思いを巡らせるタイミングがある日やって来たら、そのいわゆる俗社会に生きるエゴの自分をそのまま脚色せずにBさんに当てはめて( ここで脚色すると元も子もないです)、
空の上ぐらいからのつもりでCさんとして眺めると、視点が変わる、視野がひらけたりするんですね。
人間はこの世を体験するために生まれてきました。欲望や不条理に対するやるせない気持ちなどをはぐらかさずに存分に味わえと言われる所以も私の中のBさんがいるからこそ気づかせてくれるということですね。
ここでコントロールすべきは自分の体ではなく多面的な私、ということがわかります。
いつもCさんで居られたらどんなに楽だろうと我ながら思うんですが、これが俗のエゴ私Bさんが居ないと学べないんですねぇ。なのでBさんはもう必要なツールぐらいに思って客観視を続けていると段々極端に偏らなくなってきます。
取り入れた情報が正しいか間違いかではなく、自分に合うものか必要なものかの区別が感覚的にわかってきます。
Cさんのわたしは体工場が持ち前の機能を働かせ熱を利用して滞っているエネルギーを体の外へ追い出そうとフル稼働している様を、頭はボーっとしながらもめっちゃリアルに観ています。熱が下がると、次は喉が痛くなったり胃腸が動き出したりして、体自身の順番で黙々と調整していきます。体があまりにも弱っていると克服できるんだろうかと人ごとのように思うぐらいなかなかの重労働です。そうなってくると、やはり人間は自然の前では無力で、人間が世界を変えようとすることがいかに傲慢かに気づいてきます。体は自然なので私よりもはるかにパワーを持っています。
自然である体を人間たらしめるもの。
脳ですね。
脳に支配されるのではなく、自分の多面性をうまくコントロールするために私が脳を利用できるといいんですよ。
ここまでくると次の段階、Dさんあたりに登場してもらわないといけなくなりそうです笑。
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